喫茶店の店主からの電話
わたしが大学生だったころですから、今から20年以上前のある日のこと。
わたしは土居珈琲の電話番をしていました。
すると、当時得意先だった喫茶店の店主から電話がかかってきました。
店主は、わたしにこう言いました。
「お前のところのコーヒーが美味しくなかったから、うちのお客が減った。取引をやめる」。
店主からそう言われたら、しかたがありません。
父親と一緒に、今まで取引をしていただいた挨拶をして、最後に貸していた看板を引き取って帰りました。
当時、コーヒー会社は契約いただいた喫茶店さまに対して看板をプレゼントするのが通例だったからです。
契約が切れた得意先の看板を持って帰ったところで、使い道はありません。
ですから、帰りがてら、わたしは父に言いました。
「引き取ったこの看板どうする?捨てて帰る?」
父はこう答えました。
「あそこは、また取引させてくれと絶対言うてくる。その看板は捨てんとおいとけ」。
喫茶店の店主は、「やっぱり、土居珈琲のコーヒーの味でなければ」と戻ってくると父は言うのです。
言葉で言うほどカンタンではありません。
コーヒーをつくっていて、最初に考えなければならないことは、どういう味のコーヒーを作るかということです。
コーヒーは、種類の異なる生豆の組み合わせと、焙煎度合いの変化で味をつくることができます。
自分でコーヒー会社を起こすくらいだから、自分が美味しいと考えるコーヒーの味をつくっているんだろう。多くの方はそう考えるかもしれません。
しかし、「自分が美味しいと考えるコーヒーの味をつくる」ということは、言葉で言うほどカンタンではありません。
売り上げを考えなければならないからです。
売り上げを上げるためには、契約をしてもらう喫茶店の数を増やさなければなりません。
多くの場合、喫茶店の店主が、コーヒーの納入会社を決める際にまず見るのは値段です。コーヒーの納入価格が他より安くなければ、なかなか納得してもらえないわけです。
ただ、価格を安くしようとすれば、当然使える生豆は限られてきます。
さっぱりとした飲み口で、何杯飲んでも飽きない味わい
父は、当初から自分がつくりたいと考えるコーヒーの味の具体像を明確にもっていました。
それは、「さっぱりとした飲み口で、何杯飲んでも飽きない味わい」というものです。
父はそれを、「家庭で母親が作る料理のようなものだ」とよく言っていました。
父がその味わいを求めた気持ちはよくわかります。彼の母親は家庭をかえりみる人ではなかったからです。祖母は家で食事をつくることは、めったになかったそうです。
そうした背景があって、父は家庭料理の味というものを、いくつになっても強く追い求めていました。
彼が理想としていた家庭の味とは、いつも温かく自分を迎えてくれるものであり、けっして飽きないものです。家庭の料理とは、すべての人においてそういったものではないでしょうか。
そうしたことがあり、彼は売り上げより自分が考える理想の家庭の味を、コーヒーでつくり出すことのほうが重要だったのです。
それはある意味、自分のわがままを押し通すことであると言えるかもしれません。しかし、なにかを作り出すとき、自分のわがままを押し通すことほど、強いものはありません。
ですから、父は昔から使用する生豆も、ランクの高いものばかりを使っていました。自分の理想とする味わいは、品質の低いものでは作れなかったからです。
ただ、彼の考えで作り出したコーヒーの味わいは、他社のものと比較したとき、わかりやすさをもっていませんでした。
そのため、テイスティングテストの場で採用されることは、あまり多くありませんでした。店主からしたら、その味が物足りないのです。また、価格も通常のコーヒー会社のものと比較したとき勝負になりませんでした。
ただ、新規に契約してもらえなくても、彼はあまり気にしていませんでした。
「長く味わって、はじめてその良さがわかるもののほうがええんや」。
父はそう言って、けっして味を変えることをしませんでしたから。
ただ、お付き合いいただいた喫茶店さまからは契約を切られても、「もう一度、土居さんのコーヒーを仕入れさせてくれないか」と再契約を申し込まれることは当時から比較的多かったと記憶しています。一度引き取った看板を、また戻しに行くということは一度や二度ではありませんでしたから。
こうした背景があって、土居珈琲の味は生まれていきました。
土居珈琲のコーヒーを口にした方が、家庭料理をイメージしているかどうかはわかりません。
ただ、それは父のそうした過去があったうえでの“想い”からつくり出されたものですから、他にはないものとなっているのは確かです。
戻ってきてくださるお客さまが多いことは、嬉しい限りです
土居珈琲をはじめた当初、お客さまのほとんどは喫茶店さまでした。
40年以上の月日が経過して、現在お客さまのほとんどは、ご家庭でコーヒーを楽しむ個人さまへと変わっていきました。その個人のお客さまも、10年以上ご縁をいただいている方が多くなりました。
また、ある一定の期間ご注文いただけなかったお客さまから、ある日を境に再びご利用いただけるようになるということも、よく目にするようになりました。
世の中には、たくさんのコーヒー会社があります。必ずしも、わたしどものコーヒーでなくてもいいと思います。
しかし、他のコーヒーを口にしたときに、戻ってきてくださるお客さまが多いことは、とても嬉しいことです。
長くご愛顧いただく方も、一度おやめになられて戻っていただく方にしても、「土居珈琲のコーヒーの味でなければ」とお考えいただいているからだと思うのです。
今、父に代わって焙煎しているものとして、このことは、とても嬉しく感じています。